AFRICANSYMBOLプロフィール

 学生時代から始めたサウンド・システム、“アフリカン・シンボル”は、1980年代に勢いを増し、自ら所有していたカッティング・マシーンで次々とダブ・プレートをカット。ラブ・ア・ダブスタイルを中心とし、100個のスピーカーを持つジャマイカ最大規模のサウンド・システムとなっていった。 
1983年にはエチオピアの飢餓の為、チャリティー・ショーをプロモートし、約260万円を寄付。
 
 
1986年には、ジャマイカ・サウンド・システム・アワードで、NO.1のタイトルを勝ち取り、翌年、彼所有のネット・ボール・チーム(女子のバスケットに似た球技)と、サッカー・チームが共にジャマイカ・ナショナル・リーグでNO.1になる。

 同じ頃、アフリカン・シンボル・レーベルとしても、7インチを数々リリース。90年以降、しばらく活動を休止していたが、1994年―1998年、シンボル・レーベルは、日本人アーチスト“ランキン・パンプキン”とジャマイカのシンガー“セヤン”のコンビネーションを次々にリリース。

 2000年には、ダブ・カッティング・マシーン、54チャンネル&32チャンネルのミキシング・ボードを搭載したレコーディング・スタジオを建設し、音源制作に力を注ぐ。

 一方、アパートや、オフィス賃貸、ゲスト・ハウスも経営している。

AFRCAN SYMBOL SOUND 

1987年にジャマイカ全土で行われた、サウンドシステム
勝ち抜き戦。ジャマイカ各地を勝ち抜いて、最後は
キングストンで行われた最終戦で優勝を勝ち取った時の記念盾。

プロモーターはスティングのプロモーターとして有名な、
スプリーム・プロモーション。
80年代のアフリカン・シンボル・レーベル
アフリカン・シンボルが抱えていた、サッカーチーム
の当時のメンバー写真
AFICAN SYMBOL UNITED FOOTBALL CLUB。
サッカーチーム
1998年にフランスで開かれたWORLD CUPで、日本と対戦したジャマイカのチーム、REGGAE BOYSでプレイしたスティーブン・マルコム選手も、このAFICAN SYMBOL UNITED FOOTBALL CLUBに在籍していた。
小柄な体で仲間から「ショーティー」と呼ばれていたマルコム選手は、スキルフルで屈強なミッドフィールダーとして大活躍していたが、2001年1月にジャマイカのキングストンで行われたアメリカとの対戦の帰り、彼と同じモンティゴベイ出身の選手で、フランスのワールドカップで日本チームに2点のゴールを入れたティアドー・ウィッツモー選手の運転する車がモンテゴベイの手前のトレラウニーで転倒し、マルコム選手は首の骨を折って即死。ウィッツモー選手は、軽い怪我ですんだ、後に逮捕され、マルコムの死にたいして裁判にかけられたが、2ヵ月後には罪は却下され無罪となった。マルコム選手の突然の不幸な死に、国民はたいそう悲しみ、ジャマイカ政府とフットボール協会は盛大な追悼式を開いた。

AFICAN SYMBOL UNITED FOOTBALL CLUB 
優勝トロフィー
アフリカン・シンボルのネット・ボール(女子のバスケットに似た競技)チームの優勝トロフィー。